2013年12月20日

【原発なくそう!九州玄海訴訟】菅波佳子さん意見陳述

本日の原発なくそう!九州玄海訴訟第7回口頭弁論における司法書士菅波佳子さんの意見陳述。
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 私は、福島県の司法書士です(職名:菅波佳子)。私の自宅と事務所は、双葉郡大熊町の福島第一原発から4キロの距離にあります。大熊町では、2011(平成23)年3月11日の夜10時前に、福島第一原発から3キロ圏内の住民に避難指示が出され、10キロ圏内の住民に屋内待避の指示が出たことを知らせる防災無線が町内に響き渡りました。携帯電話は通じず、家族の安否もわからないまま、不安な一夜を車の中で過ごしました。翌朝6時頃、原発から20キロ圏内の住民に避難指示が出たので大熊町民は全員避難する。迎えのバスが向かっているから近くの集会所に直ちに集合するようにと指示する防災無線が繰り返し流れました。集会所では、「山側に避難する。観光バスだから荷物は手荷物だけにするように。ペットは連れて行けない。車では避難しないように」と消防団員らが説明してまわっていました。住民達は、「原発に何かあったのか?どこに行くのか?いつまで避難するのか?」と聞いていましたが、「山側のどこに行くのかはわからない。念のために避難するだけだと聞いている」と回答するだけで、消防団員らも詳しい情報は聞かされていないようでした。「30台の観光バスが往復して町民全員を避難させる」との説明でしたが、大熊町の人口は約1万1000人です。たった30台で避難なんてできるはずがないと思いました。暫くして、バスが1台到着しました。高齢者や小さい子供連れの家族を先に乗せ、集会所で後続のバスを待ちました。数台のバスの後、昼を過ぎた頃に、自衛隊のトラックが何台も連なってやってきました。私は、残りの住民達と一緒にトラックの荷台に乗り、大熊町を後にしました。
山側に向かう細い道路は、避難する車や自衛隊のトラックで大渋滞していました。受け入れ予定先の避難所では「既に定員を超えたから他に行って欲しい」と何か所も断られ、その度に新たな受け入れ先を探し、あても無く山中の道をトラックに揺られ彷徨いました。結局、トラックの荷台に10時間以上乗っていました。
真夜中にやっと決まった避難所でも、水素爆発があったために、スクリーニング検査を受けなければ建物の中に入れてもらえませんでした。ようやく家族と連絡が取れましたが、ガソリンが流通しておらず、すぐに迎えには来てもらえません。私は、郡山市内の避難所に1週間滞在し、その後実家のあるいわき市に身を寄せました。いわき市は、避難指示区域には指定されていませんでしたが、多くの住民が避難していて、コンビニもスーパーも営業していなかったため、生活必需品を買い揃えることもできませんでした。
実家の姪の服を借り、原発事故前から後見人に就任していた被後見人3名の安否確認作業に入りました。着の身着のまま避難し、事務所にも立入りできない時期に、被後見人の情報は自分の記憶だけです。管轄家庭裁判所は休止が続き、謄写を求めても対応してもらえませんでした。インターネットで公開された避難所情報を頼りに、何十か所もある避難所に電話をかけましたが、どこも電話はパンク状態で、繋がっても混乱していて、名前程度の情報だけでは探せませんでした。不安でたまりませんでしたが、役場の福祉課職員や社会福祉協議会、地域包括支援センター、とにかく高齢の被後見人の安否を確認するために電話をかけ続けました。幸い全員が県内外の施設に引き受けられていて、生存を確認することができました。
 4月初めには、休止していた相馬簡易裁判所の事件が再開しました。慌ててスーツを買い、訴訟資料をすべて謄写し、法廷に立ちました。1か月後に次回期日が定められましたが、それまでに依頼人の安否確認ができるかどうかもわかりません。自分の生活拠点を確定させなければ、司法書士業務は不可能でした。県内外に避難している依頼人達に対応するため、移動に便利な福島市内に部屋を借りましたが、このままでは、依頼人の連絡先すらわかりません。大熊町の事務所に顧客ファイルを取りに行かなければ、どうにもならないことを大熊町の災害対策本部に訴えました。当時は、個人の一時帰宅も認められておらず、「公益性のある事業所」にだけ立入りを検討すると聞き、後見業務や裁判を受ける権利の重要性、高齢の被後見人の安全確保の緊急性など、その公益性を疎明して立入りの許可を求めましたが、原発から5キロ圏内の事業所の立入りには、東電の放射線管理職員の同行が条件とされ、簡単には許可されませんでした。毎日、大熊町の災害対策本部に電話をかけ、「迷惑は掛けない、何があっても責任追及などしないから自分の事務所に入らせて欲しい」と懇願し続け、大熊町第1号として、事務所への立入りが認められたのは、震災から2か月後の5月10日でした。滞在時間は2時間と指示されたので,防護服を着て、地震で書類が散乱したままの事務所に入り、開業当初からの顧客ファイルや情報の入ったパソコンを運び出しました。
持ち出した顧客ファイルから、携帯電話の番号がある依頼人達の安否確認を始めました。県内外に避難した依頼人達と電話や面会して話をするたびに、原発事故の被害の大きさを知ることになりました。自宅や職場が警戒区域に指定されたために、家族全員が職を失い避難所で生活する方、避難後に家族が命を落とした方や入院した方、子供達は母親と学校の移転先で生活し、父親は会社の移転先へ、祖父母は役場機能の移転先の避難所へと家族が離散した話は山ほどありました。
一人で大熊町に住んでいた高齢の依頼人女性と連絡が取れたので、避難所に会いに行きました。自宅近くの病院に入院していた夫は、神奈川県の病院へと避難させられ、避難直後に病院で亡くなりましたが、携帯電話を持っていない妻には連絡が取れませんでした。死後数日経ってようやく対面でき、知らない土地で火葬し避難所に遺骨を持ち帰りましたが、避難先は、一般の旅行客もある温泉旅館だったため、旅館に迷惑をかけてはいけないと、お線香をあげることすら控えていました。当時高齢者は、一時帰宅も認められておらず、遺影になる写真の一枚もありませんでした。死に目にも会えず、葬儀もできず、毎日たった一人で、避難所である温泉旅館の一室で遺骨を眺めていたことを知りました。
原発事故から3か月目の6月11日には、被後見人が一人、命を落としました。避難直後から熱を出し、入退院を繰り返していました。入所していた大熊町の施設から急遽、会津若松市内の施設に運ばれ、広大な福島県の端から端へ、寝たきりで82歳の弱った体に大きな負担を強いられたのは明らかです。危篤の知らせを受けて、すぐに会津若松市内の病院に向かいました。既に息を引き取っていた被後見人の姿を見たときは、悔しくて悲しくて涙が止まりませんでした。何年先に発生するかわからない健康被害を避けるため,命を縮める結果になったのです。地震だけなら何の影響もなかった高齢者まで一律に、避難の指示を出した政府や東京電力に憤りを感じました。避難先で火葬しましたが、大熊町に先祖代々のお墓があっても納骨することはできません。避難指示区域の住民は亡くなった後ですら戻れないのです。
 今年4月、司法書士の先輩も命を落としました。原発事故前は、支部で誰よりも元気な姿を見せていた先輩は、避難先を転々とし、仮設住宅に移り住みましたが、日に日に体力が衰えました。葬儀で「先日は○○さんが、その前はあの人も、そしてまた」と周囲の高齢者が次々と亡くなっていく現状に、「原発事故を恨んでも恨んでも、恨みきれません」と涙ながらに読まれた弔辞に、避難先から参列した住民らが同じ思いで悔し涙を流していました。
 原発事故から2年以上が経過して、命を奪われているのは体力の弱い高齢者だけではありません。今年9月にも、私の依頼人が亡くなりました。震災前、債務整理手続きのために私の事務所を訪れた依頼人は、長年勤めた会社をリストラされたことで住宅ローンの支払いが困難となり、貸金業者などから借入れをするようになっていました。依頼人は、再就職はできたものの、体に障害があり、「自宅は自分の体に合わせて作られている。どうしても自宅を失いたくない」と希望したため、個人民事再生手続きで自宅を守り、他の債務を圧縮することにしました。裁判所に申立てをして開始決定後、原発事故は起きました。個人民事再生手続きは、安定した収入がなければ認められません。原発事故で再び職を失い、取下げを余儀なくされました。法的救済を受けられるはずだったのに、それができない。原発事故で生活基盤を失った不安に加え、借金の悩みも復活したのです。依頼人は、避難先から一時帰宅する途中に脳梗塞を起こし、そのまま帰らぬ人になりました。体が不自由で64歳の単身、慣れない避難先のアパート暮らしに、室内で何度も転んでは、「原発事故が憎くて悔しくて、一人で泣いていた」というのが、私が依頼人から聞いた最後の言葉でした。
福島第一原発の立地している双葉郡8町村の直接死者数208人に対し、原発事故関連死者数は、921人(平成25年12月15日現在)となり、原発事故の避難による関連死者数が震災の直接死者数を大きく上回っています。この中には、将来を悲観した自殺者も含まれています。東日本大震災の難を逃れ、助かったはずの大事な命を次々に奪っていく原発事故が憎くてなりません。関連死であるかを問わず,多くの高齢者は、故郷に帰りたい願いも叶わぬまま、人生の最期を避難先で迎えていますが、その無念を国や東京電力が知ることなどできません。
 「原発事故さえなければ」。私達住民は、この言葉を何十回、何百回、口にし、涙したかわかりません。「もう二度と同じような苦しみを誰にも経験させたくない」という思いから、この裁判に原告として参加しました。
そして、法の担い手の一人として、現地福島の被害の実情を直接お伝えするために,本日ここに参りました。原発事故を受けても、国は原発ゼロへ政策を転換しません。私は、裁判所だけは、原発の存在が地域住民の命に係わる問題と捉え、正しく判断してくれると信じています。
posted by 後藤富和 at 14:52| 環境