2013年09月30日

被爆者の意見陳述

9月27日に行われた原発なくそう!九州玄海訴訟の弁論期日において意見陳述を行った被爆者の川原進さんの発言の全文を以下に貼付します。

これから、私が、玄海原発を止めようというこの訴訟の原告になった理由を、ピカドンを受けた私の生い立ちから述べさせていただきます。
1 私とピカドン
私は、昭和19年12月30日、長崎市大黒町で生まれました。三人きょうだいで姉が二人います。1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、疎開先の時津の借家の庭先で母が洗濯物を干しているのを二人の姉と一緒に縁側で見ていたとき、ピカドンのせんこうと爆風を受けました。母は庭に倒れ、私達は縁側から玄関まで吹き飛ばされたので、母は直ぐに私達に毛布をかぶせたそうです。
それから二日後、祖父と母は、本原一丁目にある叔父の家に預けていた物を受け取り、それから実家のある大黒町に家財を取りに、私と姉も連れて行きました。私達は、放射能が含まれたちりとほこりの中、爆心地である松山の直ぐそばを通ったそうです。その後も、私達は、母に連れられ、何日も時津と大黒町を往復しました。
 
2 ピカドンと差別
私は、その後半年位してから、髪の毛が抜けてしまい、母は、それを周りの人から知られないように、防空頭巾を、翌年の夏頃、産毛が生えてくるまで取ることができなかったそうです。当時、私達の周囲には、髪の毛が抜けてしまった人が沢山おり、人々は、丸坊主になっていくのは、ピカドンのせいではないかと噂し、「あの人はピカドンで体質が変わりいろんな病気になる」「奇形児ができる」など、後ろ指をさしていたそうです。
 
3  ピカドンの秘匿
私は、昭和44年妻と結婚し、昭和49年、被爆者健康手帳の交付をうけました。私達夫婦には子供ができませんでした。昭和55年、私達は長崎に帰ってきて、母と同居を始めました。当時、私は、自分がピカドンを受けたことに無頓着で、妻に話したこともありませんでした。母も、母自身や私がピカドンを受けたことを知られたくなかったので、妻には私がピカドンを受けたことや被爆者健康手帳を取得していることを話したことはなかったと、ずいぶん後になって、やっと聞き出しました。それでも、ある時、母は妻に、「子供ができないのは息子のせいではないか」と、思わずもらしたそうです。
 
4 私の無頓着
私は、60歳で直腸ガンとなって直腸を摘出し、さらに、62歳で胃ガンとなり、手術をしなければならなくなりました。現在も通院しています。
私は、原爆症認定申請もしましたが、却下されました。その理由は、本当は8月11日長崎市に入ったのに、私の手帳には、被爆直後の行動として「8月15日 長崎市本原町1丁目入市」と虚偽の記載がされていたからでした。そうなったのは、私が、病気になるまで、ピカドンを受けたことについて無頓着だったからです。
 
5 ピカドンと原発
ところで、原発もいったん事故を起こせば、ピカドンと同じように放射能を広い範囲にまき散らし、内部被曝をひきおこします。例えば、今回福島で起こった原発事故によって、広い範囲で無差別に内部被曝が起きているはずです。私の住む長崎のすぐ隣にある玄海原発でいったん事故が起きれば、全く同じことが起きるかもしれないのです。私は、私の体験と、内部被曝を受けた人達の今後の体験とが重なるように見えるのです。ピカドンを受けた一人として、今は分からないが、長い年月が経った後、ヒロシマ・ナガサキが苦しんで来たように、同じ事が起こるのではないかと恐ろしいのです。
 
6 ピカドンも原発もない「核なき世界」へ
私は、被爆国日本が原点に戻り、ピカドンも原発もない「核なき世界」のリーダーシップを取って欲しいのです。ところが、核不拡散条約再検討会議の準備委員会で核兵器の非人道性を訴える共同声明に署名しなかった日本政府に対し、賛同した国々の人々は驚いて唖然としたでしょう。核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しない限り、ピカドンも原発もない「核なき世界」を世界に訴えることは出来ないのです。
私の意見陳述も最後になりました。私達は、最後のヒバクシャであるべきだったのに、今、多くの人達が被曝をしています。いまだに、福島の原発事故の実態ですら明らかになっていないのです。私は、裁判という手段で真実を引出し、国と九州電力を相手方として、原発の危険性と不合理性を主張し、全ての原発をなくすため、まずこの玄海原発を止めることを強く訴えます。ピカドンも原発もない「核なき世界」を実現するために。
posted by 後藤富和 at 06:50| 環境