午前中長崎原爆資料館を見学。
午後は長崎原爆資料館で下平作江さんからお話を伺いました。
その後、被害の歴史だけでなくこの国の加害の歴史を学ぶために岡まさはる記念長崎平和資料館を見学しました。
以下は下平さんのお話しを聴きながら打った僕のメモ。
昭和9年に満州で生まれた。
父は満鉄勤務。
3歳の時、父は現地で殺された。
叔父が長崎に連れて帰ってくれた。
長崎市駒場町(現、松山町)で暮らしていた。
昭和16年、城山国民学校入学。
この年、太平洋戦争突入。
その内、靴がない、ノートがない、食べ物がない状態になった。
「ほしがりませんかつまでは」のスローガンで裸足で学校に通っていた。
学校の行き帰りに磁石を引っ張って鉄屑を拾っていた。どの児童も骨と皮だけになっていた。
空襲警報が出ると2000名の児童が運動場に集まる。
空襲があると、目が飛び出ないようにまぶたを押さえ、爆風で内蔵などが外に出ないように口を開けるように指示されていた。
防空壕の前には爆風除けがあった。でも、原爆に対しては無力だった。
兄は教員だったが志願して特攻隊員となった。
兄は、「お兄ちゃんはきっと帰って来れないから、この爪をお骨と思ってくれ」と言って私に切った爪を渡して出征して行った。
私は兄ちゃん行かないでという思いだった。手がなくなってもいい、足がなくなってもいいから帰ってきて欲しいと訴えた。
しばらくすると戦死の通知がきた。
戦死を伝えにきた係りの人が「おめでとうございます」と言った。私は何で人が死んでめでたいのかと聞くと、「多くの人が助かるために死ぬのだからめでたいのだ」と説明した。私はそれを聞いて泣いた。骨箱の中は空っぽだった。
2番目の兄は昼は学徒動員で軍需工場で働き、夜は医者になるための勉強をしていた。
姉の夫も、幼い子を残して特攻で戦死した。
2000名の児童の内500名は疎開した。
毎日のように防空壕に入っていた。
防空壕の中では腹を空かせた赤ちゃんが泣く。すると、軍人が「敵に聞こえたらどうする」と怒鳴り、その母親は赤ちゃんの口を手で塞いだ。その赤ちゃんは窒息死した。
8月6日、空襲警報で防空壕で寝ていた。しばらくすると空襲警報が解除された。その時、広島で原爆が落とされた。それを知らなかった私達は空襲警報解除に喜んで家に帰った。
久しぶりに家族が揃ったので白いご飯が食べたいと子ども達は言い出し、
母親は闇米を買いに行った。8月7日に母親はお米を腹に巻きつけて帰って来た。
兄が「広島に新しい爆弾が落とされたらしい。空襲警報が解除になってもすぐに防空壕から出てはいけない」と話した。
8月9日、空襲警報が鳴り、私は姉の子を連れて防空壕に入った。空襲警報が解除になったので、防空壕から出ると、妹が「兄ちゃんが解除になっても出たらダメっていったでしょう」と言い、私は姉の子を連れてもう一度防空壕に戻った。その時、防空壕の中には自分たちと4、5人しかいなかった。
その直後、ピカーっと光り、爆風で壕の奥に吹き飛ばされ気絶した。ドーンという音は気絶していたので聞いていない。
気が付くと防空壕の中は人が溢れ、真っ黒に焦げた人や皮膚が焼けただれて両手を前にフラフラした人達ばかり。
私は恐ろしくて「母ちゃん助けて、母ちゃん助けて」と叫んでいた。
妹を探そうと「りょうこちゃん」と叫ぶと、奥の方で気絶していた妹が気づいた。
妹に近寄ろうと寝ている大人を跨ぐと、ズブズブと足がはまっていった。
姉の子は畳と岩の間に挟まっていた。
壕の外に出ると見渡すかぎり何もなく、遠くに壊れた浦上天主堂。その間には真っ黒に焦げた死体が累々と転がっていた。
川にはたくさんの人が集まっていたが、川にたどり着く前に息絶えた人、川に顔を突っ込んで死んでいる人。
家のあとに行くと、真っ黒焦げの死体があり、ひっくり返すと辛うじて姉だと分かった。母はとうとう分からなかった。
そこに敵機が来たので、防空壕に行くと人が溢れるて入れず、岩の陰に隠れていた。
そこに這うようにして焼けただれた兄が来た。しかし、私は眠くてたまらず眠ってしまい、目が覚めると兄は冷たくなっていた。
助かったのは、私と妹と姉の子(1歳)だけ。
夜になると死体から光が出ていた。それが恐ろしかった。
親戚に引き取られた。
髪の毛が抜け、鼻血がダラダラと抜け、血便が出るようになった。
病院に行くと私と妹は隔離された。
2-3日で帰されたが、学校では「うつる」と言ってイジメられた。
妹は、こんな思いをするなら長崎に帰ろうと言ってきかず、長崎に帰った。
長崎では、朝鮮の人達と川原にトタンでバラックを建てて暮らした。
進駐軍が捨てた残飯を拾って朝鮮の人達と食べた。
授業中は、姉の子を学校の校庭の木に括り付けていた。
中学生になると、自殺する学生が増えてきた。
夜、妹の体からグジグジ音がする。見ると、ウジ虫が妹の腹を這い回っていた。
あおれでも病院に行くお金がない。つける薬もない。
ある日、妹は「こげん苦しいんやったら母ちゃんとこに行こう」と。私はダメだと言った。
学校から帰ると、妹が列車に飛び込んで死んだ。
頭は転がって行き、足と腕は千切れ、ウジ虫がわいている胴体だけが残っていた。
そのウジ虫で妹だと分かった。
自分も死のうと思い、蒸気機関車に飛び込もうとしたが怖くてできなかった。
高校生の時に、お金がなくて病院にすら行けない自分たちの苦しさを国会議員に訴えようと饅頭を売って旅費を貯めて国会に行った。多くの議員は私達を見ると逃げて行った。自民党の議員達は「あれはアメリカがやったことだから関係ない」と。そこで、共産党の議員に会いにいくと、被爆者のおかれた実情に驚かれ、何とかしなければと、署名を集めてくるようにとアドバイスをしてくれた。それから被爆者の署名を集めて回った。
その結果、昭和32年に被爆者手帳ができた。
こういう思いは私達だけで十分です。
生きていて良かったと思います。でも、放射線は私の体を蝕み、子宮や卵巣、その他の内蔵を摘出した。
子どもや女性に原爆を落とすことに正当な理由はない。
核兵器がある限り真の平和は訪れません。
アメリカでもイギリスでも、フランス、スペイン、色々なところに行って訴えた。
日本から世界に向かって核兵器廃絶、戦争放棄を伝えていかなければ。
でも、今の日本は国防軍を作ろうとしている。
「過去に目を瞑る者は未来にも盲目である」というワイツゼッカー(ドイツ首相)の言葉はそのとおりだと感じる。
平和とは人の痛みを分かるを持つこと。
この苦しみは私達で十分です。憲法9条を守って行って下さい。
安倍総理は怖い。
平和憲法は変えちゃいけない。非核三原則を法制化して欲しい。
憲法9条をなくせば、人類はなくなってしまう。
被爆日本から憲法9条を発信していかなければならない。
憲法9条を子や孫に伝えて行きたい。平和を願う心のバトンを渡して行く。