2013年09月27日

福島からの意見陳述

本日、佐賀地裁で行われた「原発なくそう!九州玄海訴訟」口頭弁論期日において、福島県相馬市で鮮魚店を営む中島孝さんが意見陳述を行いました。
以下に引用します。

原告を代表して意見陳述を行います。
1 私は、1984(昭和59)年から28年間、福島第一原発から北に約40qの距離に位置する福島県相馬市でスーパー「中島ストア」を経営してきました。店から1q弱のところに太平洋に面して松川浦という入り江があり、相馬原釜漁港があります。
私は、漁港を利用する漁師たちが運営する相馬双葉漁協の市場に毎朝かよって、新鮮なヒラメやカレイを仕入れ、地元のお客さんのみならず、全国のお得意さんに宅急便で送っていました。皆さんから「おいしい、おいしい」と相馬の魚にお褒めを頂いて参りました。私の生きがいでした。
しかし、2011(平成23)年3月11日の原発事故により、地元相馬の魚を中心としたこの営みは、大きく捻じ曲がってしまいました。事故から2年半が経過した今でも、かつての商売の形を再建できるめどは、全く立ちません。
 
2 大地震、大津波の翌日、あの爆発が起きました。
私の店の近くまで津波が押し寄せ、ほぼ地域は壊滅、ライフラインも寸断されました。私の店は、津波の最前線に唯一残った店となり、水や食べ物を求める人びとでごった返し、私は、押し寄せるお客さんにおにぎりを握ったり、塩鮭をさばいたりの作業に追われていました
そんななか、私の家内から、「南相馬市の実家の弟の話だと、実家でも役所が用意したバスに乗って家族全員で避難するそうだ。」と聞きました。爆発した原発から放射能が迫ってくる恐ろしさを、地域住民もひしひしと感じていました。相馬市では、そのころ市長が「籠城」を決めた、つまり、自治体としての避難はしないという報道がありました。しかし、16日、17日頃になると、私の店がある刈敷田という500世帯ほどの団地の中で、ところどころの家の窓に、夜になっても明かりが灯らないようになりました。市長の決定にもかかわらず、不安を感じる家族が一軒、また一軒と避難を始めたのです。
家内に「地域には多くの人が残っている。息子はまだ若いので避難させたいと思うが、店がなくなったら地域には餓死者が出るかもしれない。どうする?」と聞くと、家内は「一人暮らしのお年寄りもいるし、最後まで二人だけでも残って、何とか店を続けよう。」と言います。
27歳の息子に「お前だけでも避難させたい。」と言うと、息子は、しばらく考えて「どこに逃げても放射能に追われる。だったら残って店をやる。」と言うのです。息子の将来の安全にとってどうなのかと、親として心にトゲが残りました。
私は、こうした状況が続く中、原発はもう止まるもの、無くなるものと思っていました。ところが、民主党政権は再稼動を決定し、大飯原発が動き出しました。
事故は終わっていないのに、国も電力会社も、フクシマから何も学ばないのか、また第二のフクシマを引き起こすつもりなのか、との強い怒りから、2013(平成25)年3月11日に福島地裁に提訴した「生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の原告団長を引き受けました。
 
3 原発は、一旦事故を起こせば取り返しがつきません。言葉に尽くせぬ大変な事態を、我々は福島において日々体験しています。
(1) 避難指示区域の浪江町は、全町民が避難を余儀なくされています。10数軒の畜産農家が、隣の南相馬市の仮設住宅などから通ってきて、生き延びた牛たちに共同で餌をやり続けています。避難指示が出たとき、牛舎に牛をつないだままで避難したため、多くの牛たちが餓死しました。放し飼いされていたおかげで生き延びた牛たちの殺処分が始まったとき、彼らは、「これは証拠隠滅になってしまう。牛たちを生き延びさせ、生体にどういう影響が出てくるか、研究者に提供して調査をつづけ、まぎれもない証言者として、原発事故の惨状を告発し続けてもらう。」そう、心に決めたそうです。
しかし、彼らが美味しい牛乳を搾って販売したり、霜降りの和牛を出荷できる日が再び来るのかどうかは、誰にもわかりません。
(2) 海岸線から内陸に入ると、まるで、家の中から前掛けをしたおばあさんが出てきそうな、あるいは子供たちがボールを蹴りながら走り出てきそうな、暮らしの匂いがそのまま残った家並みが、いたるところにあります。しかし、そこに人は住んでいないのです。誰もいないのです。
そんな場所で自宅の庭に花を植えている人を見かけたことがあります。聞いてみると、「隣の市で仮設住宅暮らしをしているけど、いつ戻れるかわからない。家は荒れ放題だが、修理もできない。せめて朽ち果てていく我が家に花だけでも飾って綺麗にしておいてやりたい。」と言います。
(3) 私の住む相馬市では、水道の水源は、放射線量の高い山中のダムです。市役所の説明では水道水は安全とのことですが、市民は不安に思い、ペットボトルの水でご飯を炊き、みそ汁を作る家庭が現在も多くあります。お風呂にしか水道を使わないと言うのです。生活費も当然跳ね上がります。
水道水を飲むか飲まないかをめぐって市民の中に分断があります。放射能を心配し過ぎて危険だと騒ぐから、風評も収まらないし復興も進まないのだ、という意見の市民もいるのです。地元産の農水産品についても同じです。家庭内で、地元産を食べたいおじいさんおばあさんと、自分も食べたくないし、子供にも決して食べさせたくない息子夫婦との感情のすれ違い、断絶があります。
長期にわたる低線量被ばくの健康被害について、見解が対立している状況です。やむを得ず、被災者がそれぞれ判断し、対策を取るため、こういう対立や分断は止むことなく生じています。
 
4 地域がまるごと失われ、暮らしが根こそぎなくなってしまうこと。明日を信じることができないということ。ここまで頑張れば救われる、という励みを持てずに暮らすこと。福島に住んで、日々我々が直面しているのは、こういうことです。
この玄海原発差し止め訴訟において、原告が抱いているのは、こういう事態をここ九州でも引き起こしてはならないという強い思いです。私が福島からこの裁判に参加したのも、同じ事故を二度と起こしてはならないという強い憤りからです。原発を再稼働するということは、半永久的に続く福島の被害を容認するということです。再び事故が起きることを容認することです。そんなことは断じて許すわけにはいきません。
福島のこの2年半は、原発が持つ異質の危険性をはっきりと表しています。汚染水の海への流出、汚染水貯蔵タンクからの度重なる漏出など、収束とは程遠い状況です。安倍首相がIOC総会で安全だ、コントロールされていると強弁しても、次々に起きている被害がそうではないと証明しています。
放射能の危険におびえることのない平穏な環境で生活をすることは、我々の最も基本の権利です。
社会の命運を決するであろう此の時に、幸せな社会を造ろうと努力する人びとの背中を押し、勇気を鼓舞するような、そしてまた、人類史の画期となったと後世語り継がれるような、熱意と正義にあふれる裁判所のご判断を心からお願い申し上げまして、原告を代表しての陳述と致します。
posted by 後藤富和 at 15:52| 環境