「妥協」というと何だかマイナスな印象を受けますが、案外僕はそう感じていません。
逆に「こだわり」というとプラスイメージが大きいですが、僕は若干マイナスイメージを感じます。
最近、議論・ディベートの訓練ができていない方が多いということを感じます。
この国は民主主義を採用していますので、意思決定は多数決によって行われます。
ただ、多数決というのは単純に数の多い方が勝つという意味ではありません。
多数決の前提として、決を取るに至るまでに徹底的に議論をし、その議論の過程で双方妥協をし、仮に一方の意見が採用されたとしても他の意見の方に一方的に不利益が行かないように調整をすることが必要です。その過程では「こだわり」を捨てる必要も当然出てきます。
そうでないと、多数決は単なる多数派による少数派の侵害になってしまいます。51人の幸せのために49人に不幸せを押し付けるということになってしまいます。
つまり、民主主義(多数決)の前提としては、徹底した議論の中で、妥協と調整を繰り返すことが必要なのです。
しかし、最近気になるのは、その妥協と調整に向けた議論を経ずにいきなり多数派の意見を押し付けるということが国政の場でも地方政治の場でも、はたまた地域や職場の会合などでも目につくということです。
話が難しくなるので単純に言うと、人と議論をしたり、物事の採否を決める際に、必要な姿勢として、単純に白か黒かで決める、反対意見を敵視し徹底的に叩くのではなく、@趣旨・目的とA手段に分けてその順序でそれぞれの正当性、相当性を考えるということ。
例えば、ミニスカートを履いて授業参観に来たいという母親について、PTAがミニスカートを履くのならば授業参観に来るなということについて考えます。
「そんな母親の方が非常識だから、ミニスカートで授業参観来るなというのは当然じゃないか」という意見もあると思います。
しかし、僕は、これでは議論にならないと感じます。単なる自分の価値観の押し付けであって妥協と調整の余地がありません。
そういう時は、@趣旨・目的とA手段に分けて考えると良いと思います。
まず、授業参観の趣旨・目的って何だろう。授業参観に来る保護者の服装を問題にする趣旨・目的って何だろうって考えます。
そして、仮に、保護者の服装について一定配慮すべき目的の正当性が確認できたら、その目的を達成するための手段として「授業参観に出席させない」という手段は相当かということを考えます。
このような過程を踏むことで、単なる価値観のぶつかり合いではなく、議論になると思います。そして調整が可能となってくると思います。
結構、この考え方は様々な場面で応用できますよ。
最近話題になっている卒業式における君が代斉唱起立問題について、この思考で考えてみてはいかがでしょうか。

