2014年07月04日

第9回裁判意見陳述】作家・早乙女勝元さんの意見陳述

【第9回裁判意見陳述】作家・早乙女勝元さんの意見陳述書です。
原告 早乙女 勝元

第1 はじめに
私は作家の一人でして、著書150冊ほど、そして「東京大空襲・戦災資料センター」の館長を仰せつかっております。
私がなぜこの訴訟に参加したのか、なぜ、今日、意見陳述をするのかを理解してもらうためには、まず、私どもが、けんめいになって語り継いでいる『東京大空襲』とは何か。それを少しご説明しなければなりません。『東京大空襲』のことを、この場でお話しすることで、戦争と原発に共通する問題性がはっきりわかるとともに、両者の決定的な違いも明らかになるからです。

第2 東京大空襲が起きた背景や当時の状況
1944(昭和19)年、今から70年前になりますが、日本が仕掛けた戦争の形態が、がらっと変わりました。それまでの戦場は海の彼方にあって、日本軍は「東洋平和」を旗印に、海を越えていったわけですが、その戦場が、国内の都市部へと飛び火したのです。
当時の日本の国土は「銃後」と呼ばれていましたが、なぜ戦場化したのかといえば、アメリカが日本向けに開発した爆撃機B29の登場によってです。

もはや戦局は下り坂でして、東京から2300キロ地点のサイパン、テニアン、グアムの3つの島が、B29の前線基地となり、ここを飛び立つB29は、東京を主にして、日本中の都市をターゲットにすることができました。

そして、不気味なサイレンの鳴りやまぬ日々となり、戦争最後の年を迎えます。

わが家は、東京下町の向島区(現墨田区)にあって、私は12歳。今でいう中一の生徒ですが、少国民も勤労動員で、隅田川沿岸の大鉄工場で、手榴弾作りにあけくれていました。
日本は神国と教えられ、やがて神風が吹いてくれると信じていましたが、連日連夜の空襲で、地方にツテがないため疎開もできず、神風を待って東京に踏みとどまっていました。

第3 空前絶後の被害を出した東京大空襲 
東京はB29による空襲が100回余もありましたが、ケタ外れの人命被害を出したのが、1945年3月10日未明の、東京大空襲です。その夜、300機ものB29が、超低空で東京下町地区を襲い、新型のナパーム性焼夷弾1700トンを、雨アラレとぶちまけました。折からの北風にあおられた火災は、またたくまに燃え広がって、超人口密集地帯の木造家屋をなめつくしていくことになりました。
私たちは火の粉の激流を掻きわけながら逃げましたが、焼夷弾の一発はすぐ左側の電柱に突き刺さり、電柱がマッチ棒のようにばっと火を噴き、すぐ前を走っていた男が、火を振り払おうとコマみたいに回転している光景を、忘れることができません。生きるも死ぬも紙一重でした。

ある母親の体験ですが、突然、背中の子どもが、ギャーッと異様な声で泣きわめき、あわてて子どもをおろして胸に抱くと、口の中が真っ赤っ赤。血じゃありません。火の粉が泣いている口ん中に入って、喉をふさいでカーッと燃えている。それを指で掻き出しながら、逃げたといいます。

まさに地獄の業火の中を、人びとは逃げまどい、一瞬のうちに火だるまになっていったのです。爆撃は二時間余で終了しましたが、猛火は下町の大半を焦土に変え、100万人が家を焼け出され、死者は10万人で、そのほとんどが、男たちを戦場に送り出した留守家族の女性や子ども、お年よりたちだったのです。

世界の戦争史で、いかなる激戦地といえども、こんな短時間で、これだけの将兵が失われた例はありません。人類史上空前の大量殺戮都市は東京であり、沖縄の地上戦に広島・長崎の惨禍と続くのです。

第4 戦争の終結と私の進むべき道
3月10日正午、焼け残りの家のラジオは、東京大空襲による政府発表を告げましたが、その中に、私の承服できぬ一行があります。「都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は2時35分、其の他は8時頃迄に鎮火せり」で、100万人の罹災者と、10万人の都民のいのちは、「其の他」の三文字で片付けられたのです。

当時の民間人は、「臣民」「赤子」「民草」と称され、人権など爪のアカほどもなく、雑草並みの存在でしかなかったのです。

B29による無差別爆撃は東京から、名古屋、大阪、神戸、横浜と続き、五大都市爆撃が終了した6月以降は、中小地方都市爆撃へと移行。日本中のほとんどの都市がガレキだらけとなり、最後の止めが二発の原爆で、8月15日正午、やっと戦争が終わりました。

この年、1945年度の日本人の平均寿命は、男性23・9歳、女性は37・5歳でしかありませんでした。

敗戦の翌年、私は当時の国民学校高等科を終えて、町工場勤めのミニ社会人となりましたが、貧困家庭故に、大学はおろか高校も出ていません。自分で自分があわれに思える青春でしたが、もっとあわれな、炎の中に消えていった友のことを考えました。声なき友は、私に語りかけるのです。

「君だけは生き残らせてやろう。そのかわりに、戦争で命を絶たれた子どもたちのことを、語り継いでいってくれるかね。最後の一人になってでも、戦争絶対反対を叫び続けてくれるかね?」

「はい」とうなずいて、私の生きていく道は決まりました。

第5 東京大空襲を語り継ぐその後の活動 
1950(昭和25)年に、朝鮮戦争が始まると、あのB29が東京の横田基地、埼玉県の入間基地から出撃していきました。その爆撃の下がどうなっているのか。私はいたたまれぬ思いで、自分が過ごしてきた少年期の戦争を振りかえり、町工場に働きながら自分史『下町の故郷』を書き上げて、最初の著作となりました。20歳でした。直木賞候補作にすいせんしてくれる作家もいました。

1970年、私は「東京空襲を記録する会」の発足を呼びかけ、多くの文化人の協力を得て、美濃部東京都知事に陳情しました。革新都政の援助によって、全5巻からなる大資料集『東京大空襲・戦災誌』(菊池寛賞)を、三年がかりでまとめましたが、空襲を記録する運動は全国に波及して、各都市に記録する会が誕生、民間人の戦禍の記録を後世にという、大きな流れになっていったのです。

しかし、東京都議会の一部の勢力によって、平和祈念館建設計画は凍結され、やむにやまれず民間募金によって、現在の「東京大空襲・戦災資料センター」が開館にこぎつけたのは、13年前のことです。用地はある罹災者の無償提供によるものです。

言い出しっぺは私ですが、何事もすべては一人から始まることに、確信を持ちました。その一なる声に道理と感動がともなえば、無限大に広がっていく、ということ。一人は微力ですが、こだわって生きれば、それなりのことはあります。

第6 戦争を語り継ぐ人間がなぜ原発訴訟に参加するのか
その私は、東日本大震災による福島県の被災地に二度ほど調査入りをしました。南相馬市の小高区、「帰還困難区域」の浪江町ですが、息が詰まるほどの衝撃を受けました。

その惨状たるや、10万人が一夜で死んだ東京大空襲の焼け野原に似ていませんか、と聞かれました。たしかに酷似している点があります。それは、ごく当たり前の穏やかな日常を、一瞬にして非日常にしてしまう点です。10万人をわずか2時間余りで殺し尽くし東京の下町を瞬時に焦土と化した大空襲。

片や爆弾も業火も使わずとも、目に見えない放射能による健康被害によって、そこに住む人々を残らず立ち退かせ、ゴーストタウンに変えてしまう原発。フクシマで目の当たりにした崩れかけた無人の町並みの先は、まさに戦場を思わせる絶望的な荒廃状態でした。

けれど、原発問題と戦争や空襲とでは、決定的に違うことがあります。

8月15日、戦争終結の報と同時に、人びとは焼けトタンを拾い集めてきて、雨露をしのぐ場を確保しました。いわゆる壕舎生活があすこにもここにも。国破れても山河ありだったのです。

ところが、私の見た福島県の被災地では、それができない。放射能汚染が続く限り、この先、何十年、何百年、あるいは半永久的にその土地では生活はおろか、近寄ることさえできない。たかだか電気を生み出すためだけの原発のために、何世代にも渡って住み慣れた土地を奪われることなど、許されていいはずがありません。

生活の基盤たる故郷を失い、家族と離散し、生きていく上でのありとあらゆるものを根こそぎ奪われた人びとに、東京大空襲を生きのびた私の思いは重なります。一体何が収束か、原発の再稼働・輸出の政府の動きは、もってのほかです。戦争も原発も、絶対に次の世代に残すべきではありません。

東京大空襲、そして戦争を語り継ぐことをライフワークとしてきた82歳の私が、今、原発訴訟に参加し、原発なくせと訴えるのは、経済よりも命を優先する社会、「穏やかな日常」を安心して過ごせる社会へと変えたいからです。命ある限り、最後の一人になってでも絶対反対を叫び続ける気概を、この原発訴訟に参加している原告一人一人の皆さんとともに持ち続けたい。そのような思いで、このたび原告になったという次第です。今ならまだ間に合う。子どもたちや孫たちのために、もうひとふんばりするつもりです。
                           以 上
posted by 後藤富和 at 18:31| 環境