2014年08月02日

朝鮮人強制連行殉難者法要

本日、民主党の原中誠志県議と一緒に朝鮮人強制連行殉難者の法要に参加しました。
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以下の原中先生が準備されたレジュメの中の明星氏のような気骨を持った方の尽力(尽力という一言では到底表せないような情熱や友情、苦難、妨害があったと思われます)で、かつて筑豊で多くの朝鮮人が働かされ、祖国に帰れないまま死んでいった事実が風化せずに今に残りました。明星氏は、五木寛之の「青春の門」の伊吹重蔵や、帚木蓬生の映画「三たびの海峡」の河時根、徐鎮徹のような信念を持った方だったのでしょうね。

以下、原中先生のレジュメを引用します。

 飯塚市相田、高尾団地一角の無縁墓地に旅人墓、通称「倶会一處の碑」が建っている。この場所は、飯塚市伊岐須の「安楽寺」、飯塚市相田の「相田八幡宮」、そして、旧来(江戸時代の墓石あり)より地元の人々が墓地として利用していた“もやい地”(共有地)ということである。

 碑の前面には「倶会一處」と彫られている。「倶会一處」とは『阿弥陀経』の中に出ている言葉で、「他方信仰の行者が浄土に往生して、倶(とも)に一處(ひとところ)で会う」という意味である。判りやすく言うと、「この世で縁があって出会ったが、由あって識別したり、死別したとしても、あの世でまた出会いましょう」ということである。碑の裏側を見ると、そこには建立年月日「昭和44年1月」、建立者「共立鉱業 栗原利夫」、「明星菊一」両名の名前が彫られている。

 この碑の謂れについて、1991年、故・武富富巳男氏と一緒に栗原氏に話を伺ったことがある。残念ながら、碑建立の発起人であり建立者の明星菊一氏はすでに他界されており、栗原氏は詳細までは分からないということであった。栗原氏はもと石炭商を営んでおり、その関係で、明星氏と取引があり、今回の件に関しては、栗原氏は(共同事業者ということで)お金を出しただけということであった。

 明星氏は、もと潤野炭鉱で水洗炭業の仕事をしていたが、閉山に伴って廃業。他の地で営業再開を目論んでいた。そこで、すでに閉山していた日鉄高尾炭鉱(1961年(S38)閉山)の鉱区の一角を借り、水洗炭業の再開を計画した。この時、営業資金を栗原氏から借りたのである。

 明星氏は、早速、鉱区の一角の整備に取り掛かったが、営業を開始する間もなく、その地は日鉄側が団地として整地することになった(団地は1973年(S48)ごろから販売)。そのため、明星氏は団地造成事業に加担、工事を請け負った。

 しかし、整地予定地には墓所があり、しかも、墓標もない土盛りだけの墓や、碑銘の判明しない墓碑が在った。更には、ボタ石を墓石代わりにした土盛りの墓や、木の根元や大きな石の周りからも遺骨が出てきた。その処遇に困った明星氏は、日鉄側や飯塚市に遺骨の始末を訴えたが、どちらも拒否され、思案の挙句、現在の地に「倶会一處」の碑を建立、遺骨をそこに納め、供養したということである。栗原氏の話では、旧来の墓石を除き、その他の墓は炭鉱で亡くなった身寄りのない日本人、朝鮮人労働者や外国人捕虜の無縁墓だろうと言われた。栗原氏は、「他の業者は墓地や墓があってもブルで踏み潰してしまったが、明星さんは仏教徒としてそういうことは出来ず、出てきた遺骨を集め、自費で碑を建立し、その中に遺骨を納め、供養した。」と言われた。

 闇へと葬られるかもしれなかった遺骨を、このように歴史の証人として今日に伝えることができるのも、まさに明星氏と栗原氏の功績と言える。この遺骨を供養し、碑の謂れを構成に伝えることは、とりもなおさず戦争や強制連行・労働の真実(史実)を風化させず、後世へと語り継ぐことでもある。そして、その任を担うことこそ、私たちの責務でもある。
posted by 後藤富和 at 19:43| 平和