2012年01月28日

【ご案内】脱原発デモ、集会、裁判など

<脱原発デモ@福岡・天神>
WE ARE NO NUKES !!! 『全原発停止 原発は必要ありませんでした from 九州』

【日時/集合場所】
2012年1月29日(日)13:30 集合/14:00 出発
福岡 天神 警固公園(福岡市中央区天神2-2 )

【主催】TwitNoNukes九州 (脱原発デモを実行するTwitter有志)
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【ご注意】
●若い方々、お子様連れなど、どなたでも参加しやすい雰囲気のデモを目指して
います。
反原発・脱原発というテーマと関係のない特定の政治団体や政治的テーマに関す
る旗やのぼり、プラカードはご遠慮ください。
詳細は「TwitNoNukes九州」のブログをご覧ください。
http://twitnonukes9syu.blogspot.com/

★「原発なくそう!九州玄海訴訟」の提訴前夜集会
1月30日(月)時間:18:00開場 18:30開演 20:30まで。
場所:佐賀市メートプラザ(佐賀市兵庫町大字藤木1006-1)
 佐賀勤労者総合福祉センター(愛称:メートプラザ佐賀)
 http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=1424 
 21:00から交流会を予定しています。

★「なくそう!原発 九州玄海訴訟」第一次提訴日
1月31日 集合 13:00 佐賀県弁護士会館 裁判所の西100m集合
      提訴 13:30 佐賀地方裁判所(佐賀市中の小路3-22)
 問い合わせ先:佐賀中央法律事務所TEL:0952-25-3121 

★「さよなら原発! 3・11 福岡集会」
    実行委員会結成集会。
日 時:1月31日(火)18:30から21:00
場 所:福岡市人権啓発センター(ココロンセンター)
   http://jinken.city.fukuoka.jp/shisetsu/access.html
   福岡市博多区下川端町3番1号
   博多リバレイン リバレインオフィス10階
連絡先:090-1324-8588(ひろば・テント)080-6420-6211(青柳)
posted by 後藤富和 at 16:11| 環境

2012年01月23日

【ご案内】脱原発原告募集

真実を呼ぶ1万人原告のひとりになってください。
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 私たちは『玄海原発』を廃止するために裁判を起こします。
 あなたも裁判に参加しませんか?
http://no-genpatsu.main.jp/

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、未曾有の放射能汚染を引き起こし、原発周辺地域における住民の歴史と文化、生活を奪い去り、日本列島や周辺国の人々や環境に対しても深刻な犠牲を強いています。

 3.11以降の経過は、原発事故が地震や津波のような天災ではなく人災にほかならないこと、原子力発電システムの「安全神話」は虚構であり、人々が安全かつ平穏に生活する権利を蹂躙するものであること、原子力エネルギーを技術的にコントロールできるという考えは「幻想」であり、原子力エネルギーは「荒廃と犠牲」そして破局への道であることを教えてくれました。

ところが、人災としての原発事故の徹底した原因究明や、多数の原発を立地してきた国や電力会社等の責任を解明する作業も行わないままに、原発の再稼働を進める動きが始まっています。
 しかし、地震列島 日本に原発は危険すぎます。日本にある全ての原発を廃止して、再生可能なエネルギーにより安全で安心して暮らせる社会を子孫に残すことは私たちの責任だと思います。
  
 私たちは、全国で始まっている『原発ゼロ』を目指す運動と連帯し、その一環として、最初に私たちの地元に立地している『玄海原子力発電所』を廃止する裁判に取り組みます。 
 裁判では「安全神話」を振りかざして人倫に反する原発政策を推進してきた国と電力会社の責任を徹底的に解明したいと考えています。
  
 私たちと共に裁判に参加したいとお考えの方は、電話、メールにて大橋法律事務所にお問い合わせください。
下記お問合せフォームもご活用下さい。
http://www.ohashilo.jp/no-genpatsu.html
皆さんのお力をお貸しください。
posted by 後藤富和 at 14:08| 環境

2012年01月20日

脱原発街頭宣伝

天神パルコ前で「なくそう原発!九州玄海訴訟」の街頭宣伝を行ってきました。

登録したばかりの若い弁護士たちが頑張ってくれています。
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長崎の原爆被爆者も訴えました。
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なくそう原発!九州玄海訴訟弁護団では、今月31日に、国と九州電力を被告にして、玄海原発の廃炉を求める裁判を提起します。
http://no-genpatsu.main.jp/
引き続き原告を募集しています。
皆さまも一緒に原告になって、子ども達の未来のために戦いましょう。
http://www.ohashilo.jp/no-genpatsu.html
posted by 後藤富和 at 14:52| 環境

2012年01月19日

中国残留孤児問題から平和を考える

今日は、僕が委員長を務める小学校のPTAで、中国残留孤児(帰国者)の川添緋砂子さんをお招きして、中国残留孤児問題を通じて平和を考えると題し、学習会を開きました。
多くのPTA会員に来ていただきました。

20代30代の若いお母さんの中には、そもそも中国残留孤児が何なのか知らない方も多くいますので、最初の1時間は山崎豊子原作のNHKドラマ「大地の子」の第1話を上映しました。あの第1話は何度見ても涙を堪えることができません。

DVDの後、川添さんのお話を伺いました。以下は、川添さんの発言です。なお、()内は会場からの質問に川添さんが答えた部分です。

生涯で二回言葉の壁を乗り越え
 みな様、こんにちは。
 私は中国残留日本人孤児の川添緋砂子と申します。
 今日は中国残留邦人の戦争体験の話をきいていただける貴会をもうけていただきまことにありがとうございました。
 私はどうして生涯で二回も言葉の壁を乗り越えなければならなかったのでしょうか。
 私は日本人です。故郷は佐賀県唐津市北波多です。父は北波多郵便局に勤めておりました。昭和7年、満州の延吉市に転勤になりました。昭和11年3月、私はそこで生まれました。父の転勤に伴い、私の家族はハルピンに転居し、その後、黒竜江省林口市に住んでいました。
 昭和20年8月、ソ連の参戦も知らずに父は郵便の仕事に一生懸命務めていました。夢にも思わなかったソ連の爆弾が突然空から降って落ちてきました。見上げると夥しい数のソ連の飛行機が空を舞い、空が暗くみえるほどでした。
 父と妊娠中の母、私(当時9歳、小学3年生)と二人の妹。親子5人は初めて危険を感じ、原始林の中に逃げました。毎日ソ連の飛行機を避け、帰国が出来る方向に山を登り、嶺を越え、河を渡り道なき道を何日も歩いて逃げました。お腹が空いたら草や木の葉を採って生のまま食べ、夜は木の下で眠りました。雨の降る日はとても苦しかったです。地面はぬかるんで歩きにくく、服は濡れ、寒くて震えました。
 私は、いつも温かかった自分の家を思い浮かべていました。家で食事を作って食べ、寝床にもぐって、ぐっすり眠ることができるのはどんなに幸せですばらしいことでしょうか。それは現在の平和時代には平常なことでしょう。でも戦争の時代はできませんでした。私達は歩けば歩くほど家は遠くなっていきました。

 8月20日、ソ連軍隊に遭遇し、私たちは牡丹江難民収容所に収容されました(関東軍は住民を捨てて先に逃げていました)。母はそこで赤ちゃんを産んだ後亡くなりました。赤ちゃん美砂子は中国人に引き取られていきました(私はその後何度も妹を探しましたが、生きているのか死んたのかすら分かりませんでした)。
 父と私たち姉妹は、そこからハルピン収容所に移されました。そこは以前、日本人小学校でした。その臨時難民収容所は、電気器具も水道も暖房設備も全て壊れており、門やガラス窓も割れ、寝具も食べ物もなく、ただコンクリートの床に横たわって休むだけでした(1つの教室に80人以上いましたが毎日死んでいき、最後は私達家族だけになりました。父は郵便局の仕事で中国人と仲良くしていましたので、収容所の中でも父に世話になった中国人が良くしてくれたのです)。
 ハルピンの10月は雨だれも凍りつくほど寒く、でも、私達の服装は家から出てきた時の服のままでした。寒さと飢えに襲われ、父は10月10日に亡くなりました。私は起き上がって、父をトラックまで見送りたいと思いましたが、どうしてもできませんでした(私も餓死寸前の状態で立ち上がることすらできなかったのです)。目だけで父が知らない人に拾い上げられ、運ばれていくのを観ていることしかできませんでした。この日から私は孤児になりました。
 この日の夜、私は眠れませんでした。眠ったら二度と目を覚ますことができないのだと何となく分かっていたからです。その時、足音が聞えました。父は亡くなる直前、中国人の友人に私のことを頼んでいたらしく、5,6人の中国人が私を探しに来てくれたのです。「いた!まだ生きている!」と私を連れて行ってくれました。あと一日遅れたら、きっと死んでいたでしょう(妹2人も他の中国人に引き取られていきました)。

 私は、養父の昌隆水(建設会社社長)の家に連れて来られた時、頭から足まで、虱と虱の卵がいっぱい付いていました。虱が噛んだ所が膿を持って、皮膚と肌着が粘着して脱ぐことができません。養父は私を浴槽に入れて、肌着が柔らかくなったら、少しずつ少しずつ脱がせてくれ、血が出たら薬をつけてくれました。毎日、栄養たっぷりの食事を作ってくれました。でも、私は一ヶ月過ぎても、自分の力で立つことができませんでした。
 養父は単身赴任で、ハルピンに仕事に来ていました。家族は山東省にいます。戦争のせいで帰宅することができませんでした。
 男手ひとつで子どもを育てるのは、どんなにか大変なことでしょう。養父は母親のように優しい人でした。養父は私に「早く元気になって、学校に行きなさい」と言いました。しかし、中国語ができないから学校に行くことはできませんでした。その時、私は「これから中国人と一緒に暮らすのだから中国語ができないと困る。必ず中国語の壁を乗り越えるためにがんばろう」と決心しました。そして養父に「パパ、ノートを買ってください。」と頼みました。ノートをもらってから勉強が始まりました。「これはどう言ったらよいでしょうか。あれはなんでしょう?」聞いたらノートに書いて何回も読んで、覚えるまで一句一句がんばりました。あの時、私は9才、小学校三年生です。漢字を見たら日本語では読めます。中国語では読めません。私は商店街に行って読めない漢字を記録し、家に持って帰って教えてもらいました。そうして、私の中国語がだんだんできるようになりました。
 1948年の春、養父の会社は瀋陽市に移転しました。私も養父と一緒に行きました。養父は私を連れて小学校に行きました。でも空席がなくて入学できませんでした。家に帰って養父は私にこう言いました。「私がお前の命を救ったのは、自分の老後の面倒をみてもらうためではなく、お前が社会に役に立つ人間になってほしいと思っているからだ。だから、がんばって勉強をして、能力のある、道徳的に立派な人間になって欲しいのだ。」養父の話を聞いた後、私は本当に良い養父にもらわれたと思いました。これから私の命は川添緋砂子ではなく昌鳳香です。私は二回目にもらった命は自分だけの物ではなく、社会と他人に責任があるのだから、言葉の壁だけ乗り越えるのではなくて、人生の生き方の壁も乗り越えなければなりません。

 1949年10月1日、新中国が成立しました。以前行ったことがある小学校の門の側に「夜間学校生徒募集」の広報がありました。私はうれしくて戸籍票を持って入学の手続きをしました。その時、他の学生から私の日本人戸籍票を見られました。「おーい、この子は日本人の鬼の子だ。」と大きな声で叫びました。その時からいじめられ、通学の途中、石が飛んできました。頭や体に傷つけられました。養父は私の傷を見て涙を流しました。養父は仕事が終わるとできるだけ早く家に帰って私を夜間学校まで送り迎えをしてくれました。
 ある日、養父は「こっちの学校は午後6時から8時まで2時間だけだ。もし山東省の故郷に帰ったら、日本人だと誰も知らない。学習の時間も長いし、午前8時から午後4時までだ。故郷に帰ろうか。」と相談しました。
 1951年12月、親子2人、養父の故郷に帰りました。養母に会いました(私のお母さんとは似ても似つかない)。「どうしてこの人が養母だろう。身長は低くて、顔は黒くて、養父は身長高くて、中国の有名な俳優趙丹みたいな方です。この二人は夫婦でしょうかと思った時、養父は私に「こちらはママよ。はやくママと呼んで。」と言いました。私はどうしてもママと呼ぶことができませんでした。養父は「どうしてママと呼ぶことができないか。来年2月、私が瀋陽に行ったら、誰が世話をしてくれるのかを考えたか。」と言いました。
 1952年1月、小学校6年生に転入しました。7月、山東省立師範学校は生徒募集を行いました。私は試験に参加し合格しました。養父母と家族皆大変喜びました。
 その日、私は考えました。「現在、誰も私が日本人だということを知らないけれど、自分は知っている。日本人は優秀民族だから、一生懸命頑張ってあとで皆が私が日本人だと知っても、恥ずかしくないようになる!」私は努力して毎回試験は第1位でした。
 師範学校は寮生活でした。一学期に一回だけ家に帰ります。冬休みになり、私は半年間離れていたわが家に早く帰りつきたいという思いで急ぎました。途中、雪が降り出しました。35キロの道を歩いて帰るのは大変でしたが、あの時代の中国農村は電車もバスもタクシーもないので歩いて帰るしか方法はありません。まだ家からは遠く離れているところに雪達磨みたいなものが見えました。私は走って近づきました。見たら、養母が私を迎えに来て雪まみれになって待っていたのです。私は大きな声で「ママ、ママ、ママ」と叫びました。養母はとても良い人でした。私を自分の娘のように愛してくださいました。

 1955年7月、私は「全課優秀」の成績で卒業し、農村小学校の教師になりました。当時、中国の農村は貧しかったので、冬になっても靴を買うことができない生徒もいました。私の命は自分だけのものではないから、お金も自分だけのものではないと思って、生徒に靴を買ってあげました。えんぴつやノートがない生徒がいれば、私が買ったのをあげました。高校教師を務めていた時、一人の生徒がすばらしい大学に合格しました。でも、母親が病気で、入学の交通費と入学金がないから困っていました。私達夫婦はそれを知って、二人の給料をこの生徒にあげて入学することができました。この生徒は今アメリカの有名な大学の教授になっています。
 1960年「教師進修学校」は学生募集しました。私は応募し試験に合格し4年間勉強しました。卒業後、中学校の化学教師を10年間務めました。高校の指導主任と副校長も10年間しました(副校長というのは校長と同じですが、共産党員しか校長になれないため、実質的には校長でも党員でなければ肩書きは副校長となります)。
 1982年10月、中国人民政治協商会議菜西県委員会副主席に当選しました。
 1984年3月から連続3回(9年間)地方人民代表大会常務委員会副主任に当選しました。
 1993年4月、政治協商会議常務委員会副主席に当選しましたが、11月に退職して日本に帰国しました(私は父母と自分の名前を覚えていましたので、日本大使館に手紙を出していたのです。すると半年後に、唐津市にいる父の兄弟から返事が来たのです。父の兄弟は終戦後シベリアに抑留されていたそうです。祖父は私達の帰国を待ち望み、中国からの引き揚げ船が入るたびに博多や佐世保、長崎に行っていたそうです。父の兄弟から、ずっと待っていたからいつでも戻っておいでという返事をもらいました)。
 中国語の壁は48年間の歳月をかけて乗り越えたと思います。しかし、日本語はすっかり忘れていました。
 平成5年11月、ようやく帰国することができました(海外で良い生活をしていても故郷に戻りたいという気持ちは止められません。孔子の教えに「落葉帰根」というのがありますが、まさに故郷に帰りたいという気持ちです。私に日本からの手紙が来たことで夫に私が日本人であることがばれました。はじめ夫は驚きましたが、故郷に帰ることに夫は理解を示してくれました。養父は1963年に73歳で、養母は1987年に89歳で亡くなりました)。

でも、言葉の壁は、以前の中国語の壁のように厚くて、高くて「定着促進センター」で4カ月間勉強しましたけれども、聞くことも話すこともできるようにはなりませんでした。
その後、「福岡自立研修センター」で8カ月間勉強しましたが、日本語で話しかけられると聴き取ることも返事をすることもできず、買い物さえも不自由でした。
帰国して4年目の夏、小学校一年生(孫の)の国語の問題を間違えたことは一生忘れません。自分の日本語のレベルはなんと低いのだろう。もし、このままだと自分の生活が不便なだけではなくて孫の学校の成績にも影響するかもしれないと心配しました。
その年の秋、福岡県福祉課から自立研修センターが再研修生を募集するという通知が届きました。思いがけないチャンス到来にうれしくて、その日の内に申請書を送りました。同時に佐賀県福祉課に「交通費申請書」も送りました。でも「交通費は自費」との回答でした。
私は決心しました。どんな困難があろうとも日本語の勉強は必ず続けようと。
61歳の私は再研修生になりました。「レベルアップコース」の中で私は最年長者です。20代30代の若者と一緒に勉強するには勉強方法を工夫することが大事だと思いました。私は聡明ではありません。中国に「笨鳥先飛(のろまな鳥は早めに飛び立つ)」ということわざがあります。すなわち予習こそ早めに飛び立つことだと思います。予習を通して大事なところや難しいところをはっきりさせる。授業の時には真面目に先生の講義を聞いて詳しくノートをとり、わからないところを質問する。それから授業の後には上手になるまで繰り返し練習する。このようにして半分の努力で倍の成果を上げることができました。
二年間再研修して、日本語のレベルはアップしました。私は日本語で「中国残留孤児の悲惨な遭遇」というテーマで久留米大学法学部で2回講演しました。その後、佐賀大学経済学部でも講演しました。私の講演原稿は教科書にも載せられました。
日本語のレベルがだんだん上がるにつれて、周囲の方々との交流の機会も多くなり、町内の婦人部副部長や会計も担当しました。日中友好協会に入会し「切り画同好会」の会員になりました。一昨年と昨年2回福岡市美術館での作品点に参加しました。多くの方々と友達になり毎日の生活が楽しくなりました。
私は75歳になりました。でも、まだまだ勉強しようと思っています。パソコンを使えるようになりたい。日本語の歌も歌えるようになりたい。帰国から今まで習った日本語は全て標準語でした。今後は方言を聞いても分かるようになりたい。日本語の勉強は大変難しいです。この厚く高い言葉の壁は死ぬまで頑張って乗り越えたいと思います。
ありがとうございました。

以下質疑応答
・孤児の70%は学校に行っていない。というのも孤児たちを育てた養父母らは大抵貧しい境遇の方たちだったから。
・学校も出てなくて中国語でも自分の時すら書けない孤児たちに、「動詞」とか「名詞」「形容詞」とか言われても分かるわけがない。
・9歳まで日本語を話していても48年間使わないと日本語を忘れてしまう。
・私の娘は山東省の経済大学を卒業して、山東省の銀行の課長をしていた。しかし、私が帰国して1年に日本に来た。その時34歳だった。中国では銀行の課長をしていても、日本では彼女に見合う仕事はなく、ホテルの厨房や工場で働いている。
・息子は大連の大学の日本語学科を卒業し、今は東京にある中国系の大型機械の会社の社長をしている。東日本大震災の時、原発の炉を冷却するための巨大なクレーンが日本になくて困っているのを知って、彼は中国にある巨大なクレーンを寄付した。
・日本も私の国だし、中国も私の国。四川省の大地震の時は残留孤児達が中国から受けた恩を返すために募金をして、四川省に震災孤児のための学校を作った。息子がクレーンを寄付したのも同じ気持ち。
・日本に帰ってきて一番良かったことは、日本人として日本人の生活ができること。
・反日感情、反中感情について、中国でも民間のレベルでは反日感情はない。日本の兵隊は憎んでも日本の市民は優しいと皆知っている。民間同士仲良くすることが大事。
・若いお母さんたちに伝えたいことは、平和は大事なもの、戦争で被害を受けるのは普通の市民。子ども達の幸せのために平和を。

 




posted by 後藤富和 at 22:18| 平和

2012年01月18日

福島現地調査3

いわき市四倉町を通過。
天然の赤松林に囲まれた町。松茸が名産だが事故後、松茸は出荷停止。

広野町に入った。右手に巨大火力発電所が見える。この広野火力発電所といわき市の火力発電所が、原発とセットになっている。原発を補完するための火力発電所。線量が高くなった労働者を火力発電所で働かせる。

広野ICで高速を下りる。

楢葉町に入った。Jヴィレッジ。原発マネー150億円で作られたサッカー場。今は原発作業の前線基地。重機と作業員用の仮設住宅。
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広野町は指定解除後、町民に帰還を促したが、人口5800人の内、町に戻ったのは300人程度。しかも高齢者が多い。

ここからは立入禁止区域。大きな土嚢で道路が閉鎖されている。
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その脇には民家。法的には戻って良い区域だが、当然、無人。子ども用自転車が倒れたまま放置されている。

暴力団が手配した関西や九州から労働者が集まっている。
七次下請けなどピンハネも横行。
事故前は東電社員が原発に来ることはなかった。それが事故後はさすがに東電社員も作業に来るようになったが、作業に慣れていないので、かえって足手まといになっている。
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いわき市久之浜町。空襲を受けたかのような光景。
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いわき市四倉町。漁業は壊滅。
四倉町の海岸は瓦礫置き場になっている。

いわき市平の海岸を沼ノ内地区から薄磯地区に入る。すべて津波に持っていかれ、見渡す限りの廃墟。さらに南下し、豊間地区へ。ここは死者が多かった地区。この辺は従来は美空ひばりのみだれ髪にも歌われた風光明媚な地域だった。
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posted by 後藤富和 at 23:29| 環境

福島現地調査2

馬奈木昭雄弁護士の発言も興味深いものでした。以下は僕のメモ。
 「よみがえれ!有明訴訟」というのは、単に漁業被害の補償の話しではない。荒廃した地域をいかに再生させるかの話し。
 1972年、水俣病1次訴訟判決。その判決解説(おそらく裁判長自身が書いている)には、「補償問題は一応の解決が付くことになるかもしれないがそれで熊本水俣病についてのすべての問題が解決するわけではなく(中略)潜在的患者に対する調査対策、患者に対する治療方法の研究、水俣湾に対する汚染除去による自然回復など、今後に多くの重大な課題が残されており(中略)公害発生後の裁判による公害被害者の救済および公害防止の効果にはおのずからの限界のあることを痛感させられる。真の被害者の救済のためにはまず、公害を未然に防止しなければならない(略)」とある。水俣病は発生から70年が経とうとしているが、未だ解決しておらず、次世代の被害の問題や、水俣湾の水銀除去も達成していない。100年の闘いになろうとしている。
 福島の事故をめぐる国の対応は、かつて水俣で繰り返された光景。
 「想定外」という言葉。西日本新聞の阪口由美記者は、「馬奈木弁護士が、福島第1原発事故をめぐる国の対応に『かつて見た光景が同じように繰り広げられている』と言ったことが重く胸に残る。いろんな『光景』がある。その一つが『想定外』という言葉。かつて水俣病ではさんざん言われた。工場の廃液が魚介類に流れて蓄積するなんて。あんな微量なものが蓄積濃縮するなんて。法律用語で言えば『予見不可能』だったと国や企業は責任を否定した。『海に流れれば放射性物質は薄まる』。この報道で、長年水俣病患者を診察してきた原田正純医師は『腰を抜かすようにびっくりした』と語っている。『水俣の教訓を分かっていない』と。国と御用学者がタッグを組んで“大本営発表”を垂れ流す。マスコミがそれに輪を掛け、大本営発表に悪乗りした責任、これを見逃してはならない−馬奈木弁護士の指摘は、何も国や加害企業ばかりではなく、今、報道に携わる私たち自身にも向けられている。(以下略)」
 玄海原発1号機が40年で脆弱で危険なのではない。原発というそのものが危ない。テロ何かでも簡単に原発は爆発させられる。それが防げるわけがない。原発が存在する以上、事故は防げない。
 今回の原発事故は確かに最大最悪の公害であるが、その構図は今までの公害事件で繰り返されたこと。企業や政府の対応も同じ。
 諫早湾の締め切りで、有明海沿岸地域が荒廃している。これも今の福島と同じ。
 被害が起きた後に裁判をして補償をさせても問題の解決にはならない。法律家としてそれを今こそ実行しなければならない。法律家たるもの日本中から原発をなくさなければならない。今、九州では一万人の原告を集めて、原発をやめさせる裁判を起こす。
 この国は国家独占資本主義。原発だけでなくこの国では国と企業がもたれ合っている。
 原発下請けの構図。暴力団支配。これは炭鉱の納屋制度そのもの。諫早の工業事業。事業単価は日本最高額だが、現場で働く作業員の賃金は際枠。その間の金は誰のところに入っているのか。日本中の公共事業はこの構図。
 被害の回復は当然の課題であるが、被害を繰り返さないこと、日本中から原発をなくすることが重要。
 原発の危険性は何によってもたらせられるのか。金儲けをしたい連中が、事実を隠し、御用学者、マスコミを囲い込み、今後も金儲けを続けるということ。
 被害を出す企業は軍需産業。チッソは民間の肥料会社ではない。あれは爆薬を作るための国策会社。原発も軍需産業。
 水俣病の時の見舞金契約。儲けの中からほんのわずかな補償を渡して、今後も設けを続けるから文句を言うなということ。
 国が補償を一時的にでも立て替えても、必ず東電、原子力ムラ、歴代社長、歴代の通産官僚から取り立てるべき。
 多くの国民は今回の被害を目の当たりにし寄付をするなど浄財を投げ出したが、東電の社長や役員は自発的にそれをやったか。
 補償が今後も被害を出しつつけることを認めるための金になってはならない。補償はそれによって今後被害を出さないとことを認めさせるものでなければならない。それは原発をなくす以外にあり得ない。それを本当に戦い取る。これを全国に広げる。九州からその声を上げる。
 水俣では患者たちが分裂した。それは被害補償をめぐっての分裂。
 諫早でも地域住民の分裂がある。
 加害企業や国はこの分裂を利用して住民同士を敵対させる。
 飴をしゃぶらせて黙らせるのが国のテクニック。
 請求を永久に放棄させる条項と付けてくる東電に対し、けしからんという声をどこまで広げていくか。国民運動として広げていく。
 誰がしてくれるんですか?水俣、諫早の教訓→誰もしてくれない。自分が勝ち取るしかない。
 交通事故の加害者が、お前が被害者かどうか、被害の額も俺が決める、お前は文句を言うなと言っているようなもの。
 皆さん、声をあげてください。私たちも声を挙げます。
 いかに正論であっても力がなければ勝つわけない。力というのは国民の声、世論である。加害者が被害者を決めるなんてバカなことを許さないという声をあげ、それが国民の共感を呼べば、加害者が決めた法律(原賠法31条の免責条項)もうち壊せる。
posted by 後藤富和 at 23:02| 環境

福島現地調査1

2012年1月14〜15日、福島県を訪ねました。
 いわき市で、7名の被災者からお話しを伺いました。以下はその時の僕のメモです。
(男性・双葉町)
 双葉町の住民同士が喧嘩して分裂している。これは東電の思い通り。生きることに対する意欲をなくしてしまった。父母は双葉町の家に戻りたいというが、もうあんな所には返したくない。一時帰宅で家に帰ったが、風の音以外何もせず、家の中にはキノコが生えていた。田畑は荒れ放題だった。
(女性・2〜30代)
 普通に生活はできるが、5歳と3歳の子どもの自由はなくなった。外で遊ばせられない。外で遊べないことで子ども達の精神もおかしくなってきている。幼稚園でも外遊びの時間が限られている。食べ物にも異常に気を使うようになり、神経が尖ってしまい、家の中で喧嘩が絶えない。どうやって子どもを守っていけるのか。このままいわきに住み続けることが良いのか悩む。
(男性・住職)
 福島第一原発から15kmの所に住んでいる。定年までは教師をしていた。今は精神障害者施設を営んでいる。震災後、薬が処方できず施設入所者を1人死なせてしまった。復旧復興は50年100年先のことだと思う。私の年齢では復興した福島の姿は見れない。残りの人生を返せという思い。精神障害者がようやく地域に受け入れられつつあったのに、そういったこれまで築いてきた社会環境も奪われた。一時帰宅をしたが、自分の背丈よりも高い雑草が生えており、田んぼにはセイタカアワダチソウばかりだった。
posted by 後藤富和 at 22:33| 環境

2012年01月17日

中国総領事との会食

今夜は、大名華風において、中国総領事との会食を行いました。

在福岡中国領事館の、李天然総領事、郭宝忠主席領事、劉光耀領事と美味しい食事をしながら交流を深めました。

会話は、家族のことから原発のことまで多岐に渡り、総領事という公的な立場では答えにくいような質問も遠慮なしにぶつけました。

李総領事は、民間レベルでの交流の重要さを説いておられ、その点は僕も全く同感でした。

李総領事在任中に、福岡でも春節をイベントとして定着させたいですね。

この会食には、会場となった大名華風のオーナーであり福岡華僑協会の李憲章会長にも参加していただきました。
posted by 後藤富和 at 22:39| 日記

2012年01月16日

諫早湾干拓入植のごまかし

諫早湾干拓農地で農業がはじまって3年以上が経過しましたが、意外に知られていないのは、ここで農業を行っている人たちは農地を買い取った通常の入植ではなく、5年間の期間でリース契約で農地を長崎県農業振興公社から借り受けるというスタイルをとっていることです。

このリース契約の入植者選定に当たっては、農業の経験がない会社を入植させるなど選定当初から問題が指摘されていました。
ここに来て、長崎県議会で、この入植選定問題、特に、農業の経験も実績もない谷川建設の関連会社(当初、金子長崎県知事(当時)と谷川農水政務官(当時。自民党衆議院議員)の親族が代表を務めていた)を入植させたことの不自然さが、問題になっています。
この動きで興味深いのは、従来から問題を追求してきた共産党議員だけでなく、自民党議員もこの問題を追求しているという点です。

諫早湾干拓事業:入植者選定 谷川議員の関与否定、親族企業の前社長ら /毎日新聞 1月11日

 県議会の「諫早湾干拓事業(諫干)における入植者選定に関する調査特別委員会」(百条委員会)は10日、T・G・F(大村市)の前社長ら4人を証人尋問した。同社には農業の実績がなかったが、谷川弥一衆院議員、前知事の金子原二郎参院議員の親族が役員だった。選定が公正だったかが問われたが、前社長は谷川氏らの関与を否定した。

 T・G・Fは07年3月に農業生産法人を設立。同年8月に入植に応募し、12月に決定した。しかし、翌08年3月に「国会議員の親族企業」との報道を受け、社長ら役員3人が辞任した。

 辞任について、谷川氏の長男である前社長は「農業生産法人に対する認識が十分でなく、役員が必要な農作業を行っていなかった。続けられないと思った」と理由を説明した。

 また、同社の入植には大手菓子メーカーの関連会社との取引証明書が重要な判断材料となったが、県の担当者が選考審査前に、T・G・Fに証明書を入手するよう助言していたことが判明した。
http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20120111ddlk42010423000c.html

衆院議員の関与否定 諫干百条委の証人尋問で親族/長崎新聞1月11日

 国営諫早湾干拓事業の営農地に前知事と自民党衆院議員の親族企業(大村市)が入植した手続きを調べる県議会の調査特別委員会(百条委)は10日開き、衆院議員の長男で前代表取締役(40)らを証人尋問した。

 委員らは「企業設立や入植の際に衆院議員が関与したのではないか」などとただしたが、前代表取締役は「指示はなく、すべて私が意思決定をした」と否定した。

 2008年9月、同社が同市農業委員会に提出した報告書では、前代表取締役も農作業を一定期間する計画だったが、実際の作業には従事しておらず、委員らは「入植に必要な農業生産法人の要件を満たしていない。入植するために公文書を偽造した疑いがある」などと追及した。

 これに対し前代表取締役は「当時は要件を十分理解しておらず、(農作業を一定期間すると)記載をミスした。私は経営全般を担う形で農業に従事する考えだった」と釈明した。

 百条委は次回も関係者への尋問を続けることを確認した。
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20120111/08.shtml
posted by 後藤富和 at 16:57| 有明海

2012年01月15日

【ご案内】「さよなら原発! 3・11 福岡集会」(仮称)実行委員会準備会のつどい

「さよなら原発! 3・11 福岡集会」(仮称)実行委員会準備会のつどい。
日 時:1月17日(火)18:00から21:00
場 所:福岡市人権啓発センター(ココロンセンター)
   http://jinken.city.fukuoka.jp/shisetsu/access.html
   福岡市博多区下川端町3番1号
   博多リバレイン リバレインオフィス10階

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原発とめよう!九電本店前ひろば第270日目報告
呼びかけ人(4月20日座り込みから1月14日現在総数1986名)
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posted by 後藤富和 at 09:10| ご案内